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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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弥生時代  紀元前3世紀~紀元3世紀頃

弥生時代って??
弥生時代という名前は、東京都文京区の弥生町で、この時代の土器が
発見されたことによってつけられました。

この時代の大きな特徴は稲作。

縄文時代までは、狩猟や魚を取って食べていました。

稲作が発展したことによって、村の中から富を集め、指図する人が出てきて
「支配者」が生まれることとなったのです。


弥生人は稲作ができたことから、縄文人よりちょっと忙しくなりました。

自由がなくなり、お酒を飲む機会が減っちゃいました。

稲作は、もともとインドと中国の境から朝鮮へ渡り、九州北部へ伝わり広がった。

弥生時代を代表する遺跡は静岡市にある登呂遺跡。

この時代を代表する遺跡で高床倉庫があります。

この時代の住居は竪穴式住居。また、金属器も出てきました。

稲作が始まると、奪い合いから戦いが起こり始めました。

村は、村の周りに垣根をつくるようになったのです。

「もののけ姫」みたいな感じかな?

また、屈葬はしなくなり、石や木で箱型に囲ったりするようになります。

村長のお墓は、他の墓と区別するためちょっと違う作りになるように。

 
2500年 お米が日本にやってきた

縄文時代から続く寒冷化によって、食料難となっていた縄文人。

そんな縄文人に天の助けが。そう、それがお米だったのです。

1万年前くらいから中国で作られ、6000年前くらいには中国の海岸地域まで伝わったとされています。

その中国のある村の人たちが、日本に売りにきたと言われています。

そしてこの頃、縄文人が水田技術を習いに行ったと言われています。


2500年前 弥生人ってどっから来たの?

日本を仕切ってた縄文人
が、この時代「弥生人」が日本へやってきました。

なんでやってきたのかは謎ですが、とりあえず2つの説があります。

一つ目はこの頃、地球が寒冷化、つまり寒くなってきたので、大陸に住む人たちは
暖かい南の方へやってきたという説

二つ目は大陸で大きな争いがあって、そこから逃げ出した人々が日本にやってきたという説

 

 
弥生人日本へ到着

さて海の向こうの中国では、すでに天下取りレースが勃発していました。

そこの民のA君は「なんでオレらがこんな目に?戦争に借り出されるのはいっつも農民。
もうこんな生活イヤだ!戦いのない国へ行こう!」

こうして戦乱を避けるために、A君たちは海を渡り日本へやってきたのです。

A君たちが大潮の日に舟をこぎ、たどり着いたのが九州北部あたりでした

「はぁ。やっと着いた。死ぬトコだったよなぁー。」「ここは戦争のない国だといいな」

「ホントだよね」

こうしてA君たちは、中国で学んだ水田技術を使い、ムラを作り始めたのです。

ムラでお米を作りやっと安心した生活を送ることのできたA君たち
お米を作って生活をしていました。
 
力で奪い取る弥生人が、九州へやってきたのはA君たちだけではありませんでした。

他にも中国から逃げてきた弥生人グループB君たちがいたのです。

B君たちは逃げてきたものの、お米作りの上手な人がおらず
せっかく逃げてきたのに。これじゃヤバイよなと仲間達と相談

すると1人が、「おい、あっちのムラには水田作ってる奴らがいるぞ。アレを奪えばいいんじゃねーの?」

「そうだな。そのほうが手っ取り早いよな」

こうしてB君たちは、A君のムラを襲うことに

A君たちは「やっと楽な暮らしが出来ると思ったのに!ふざけるな!」と必死で抵抗

何とかムラを守ることができました。

そう。弥生人は「戦い」慣れしていたので、欲しいものは力ずくで奪う人たちだったのです。

日本に「争い」がスタートすることとなったのです。

 
弥生人と縄文人の交わり
 
そこへちょーど通りかかった縄文人のCちゃんたち
A君とB君のムラ同士の殺戮現場をみて

「何?あの人たち?ここ、アタシたちの生活の場なのに!何で殺し合いなんてやってるの??」
とビックリ。さっそくムラに帰り、事件を報告。

Cちゃんたちのムラは大騒ぎに。「どうする?」ということになりました。

が、戦い慣れしている弥生人に勝つのは無理だ・・・ということで、多くの縄文人たちは
村を離れ山奥へ逃れていったのです。

が、Cちゃんは「でもあの人たち、優れた水田技術を持ってるわよ?争うより迎え入れて
水田技術を学んだほうがいいんじゃないの?」と意見。

こうしてCちゃんたちはA君のところにやってきました。

A君も「ボクも出来ることなら戦いたくない。ボクたちの水田技術を教えるから、
仲間に入れてくれないか?」

こうしてA君たち弥生人は縄文人と仲良くなっていったのです。
 

 

日本人が誕生

A君はCちゃんに会ってるうちに、だんだんCちゃんのことが好きになってきちゃいました。

CちゃんもA君が気になり、とうとう縄文人のCちゃんと、弥生人のA君は結婚することに。

こうして子供は縄文人と弥生人の子供第一号になりました。

そしてこの交じり合いが繰り返され、現在の日本人が出来上がったのです。

ちなみに今の日本人、つまりわたし達の遺伝子は縄文系が30%弥生系が70%です
 
弥生人の顔立ちって?
弥生人の顔は目が細く、鼻が低く、唇が薄いそうです。

面長でのっぺり系という、縄文人の正反対の顔ですネー

男性の平均身長は167cm。女性が157cm。これは今とたいして変わらないですね。

東日本の住民の大部分は弥生系の血を引くようになり、
西日本には縄文系の人々はいなくなったと言われています。

 
弥生男性はお洒落さん?

この頃の人々は装身具を沢山つけていました。

装身具といってもおしゃれさん用ではなく、魔よけ用です。

一家を支える働き手である男性に、怪我がないように・・・と色々と魔よけ効果のある呪具を持たせたのです。

髪飾り・指輪・首輪・腕輪などなどを身につけていましたが、ガラスや貝・牙などでできてるので重い重い。

宝石・青銅・ガラスでできた装身具はお金持ち用。

貝や牙は庶民用でした。ちなみにこれら装身具を作るのは女性の役目です。


 
米によって日本は変わった!?食料革命スタート!

上にもちょこっと書きましたが、この時代に「お米」が日本にやってきます。
米作りはいっきに九州から青森までものすごいスピードで広まりました。

さてさて、すると今までのほほーんと暮らしていた人たちに異変が起きます。
「米」が作れるようになると、やっぱり米を多く作れるようになりたい。

それには水田を作る土地が必要だし、そのためには「水」が必要

水路の確保をしなきゃなんないし、洪水なんかから米を守るために「土手」も作んなきゃならない。
それに米は一気に収穫できるそのためには人の力が必要

こうなってくると、米作りに関わる人たちをまとめる「リーダー」が必要になってくる。
有能なリーダーに色々と指示してもらい、いかに要領よく「お米」を作れるかがポイントになってきたのです。

が、そこで起きるのが米をめぐる土地&水路の確保
やっぱりどこの集団も自分のトコにいい水田が欲しいし、楽な水場も欲しい

そうなってくると、隣の集団の水田や水路が欲しくなる・・・・

こうして各集団は、自分の集団をより楽に、そしていい生活をしたいがために、「争い」をすることになるのです。
平和な日本は、お米によって乱れまくりました。強い集団は弱い集団を吸収して、

大きな集団となっていき、それが一つの「国」となるのです。こうしてこの時代、
「邪馬台国」「狗奴国(くなこく)」「伊那国(いなこく)」などなど、
小さな集団が合体した連合国ができあがってくるのでした。

 
 
 
「倭」の国 日本

弥生時代、中国では「漢」が国と統一。
この漢の書物の中に、日本について色々と書かれています。

その中で日本は「倭(わ)」と呼ばれていました。
その後、漢は滅びて後漢に。

この頃の書物の中に、倭の中にある「奴(な)」という国が貢物を持ってきたので、
皇帝の「光武帝」は使者に印をあげたと言われています。

日本は「国」として認められたということ。

なんで中国に認められなきゃなんないのさ?というと、この頃の日本は、
中国の家来になることで他の国に対してえばることができたから。

ちなみに、この印は江戸時代に福岡県の志賀島(しかのしま)というとこで、
農民が作業中金色に光る印を発見。

これに「漢委奴国立(かんのわのなのこくおう)」という文字があり、光武帝が奴に与えた金印でした。

その後中国では後漢も滅び、3つの国に分裂。
その中の一つに「魏(ぎ)」という国があり、日本のことが書いてあります。

この書物が「魏志倭人伝」

で、その中には「倭は、2世紀後半に小さな国同士の戦乱が相次いだが、この国々が連合して
卑弥呼という女王をたてたら戦乱が収まった」と書いてあるのです。

ちなみに文字としては2000文字ほど
魏志倭人伝とは、三国志の中の一部です。


 
謎の女王 卑弥呼
 
倭の国ニッポンは30にも及ぶ国々が出来て、果てしない争いを続けていました。
争いは80年ほど続き、やっと一人の女王が国を一つにまとめて平和が訪れたのです。

その女王が卑弥呼この時10歳を少し過ぎたぐらいでした。
そして中国の後漢と通交を始めたらしいです。

魏志倭人伝によると、女王卑弥呼は・・・

①独身である
②弟がいた。卑弥呼の言葉は全て弟をとおして伝えられていた
③鬼道(シャーマニズム)に仕える
④女王になってから姿を見た人は少ない
⑤千人の召使がいる
⑥「ひみこ」ではなく、「ひめこ」かもしれない
⑦卑弥呼の正体は 神功(じんぐう)天皇説・百襲姫(ももそひめ・7代天皇の娘)説・
   アマテラス説などなど、謎がたくさん


そして中国では後漢が滅び、魏が台頭してきます。
卑弥呼は魏へ使者を送りました。

この頃はすでに初老の女性だったらしい。
240年 卑弥呼は魏から「新魏和王」の称号を貰います。

この称号は、魏に従う小国の王の中でもランクがかなり上という称号。
卑弥呼の他にはインドのクシャナ朝の王が称号を貰いました。

卑弥呼はカリスマ性を持ち合わせた女性だったという。
また大陸から珍しい道具を取り寄せたことからみんな驚きまくった。鉄製の鏡とかね。

が、247年 邪馬台国の南にある狗奴国が反乱を起こしました。
この国の王の名前は卑弥弓呼(ひみここ)というらしい。

卑弥呼は早速魏の国に応援を求め、魏から援軍が来たんだけどちょうど
朝鮮でも戦いが起こっていて、魏の援軍はそこでストップ。

卑弥呼は超苦戦した。

やっとこさ援軍がやってきた頃、卑弥呼は死んでしまった。
卑弥呼が死んだのは248年と言われています。


 
卑弥呼の死後は壱与

卑弥呼が死んだ後は男王が跡を継ぎましたが、また争いが始まってしまいました。

やはり女王がいい!ということで、卑弥呼一族の「壱与(いよ)」13歳の少女を女王にしました。
卑弥呼が魏に支援を頼んでやってきた人たちが、壱与を激励しました。

なので、ほとんど中国のいいなり。
その後、421年になるまで日本は中国の書物に登場しません。

約150年もの間に日本がどのように変化していったかの記録がまったくないのです。

ちなみに戦前は「神国日本の最初の王が女なんて!」という男尊女卑の
オヤジ達により、卑弥呼はずっと隠されていました。

戦後やっと日の目をみた卑弥呼。
卑弥呼は最初の女王ながら歴史デビューはまだ50年ほどなのです。

ちなみにこの頃、東日本では男性のボスが多かったけど、九州地方では女性ボスが多かった。

 
邪馬台国の暮らしぶり

魏志倭人伝による邪馬台国はというと、

・絹を着ていた

・雪が降らない場所にあったらしい

・男は刺青をしている。身分の高低によって違いがある

・貝塚が出現しなくなっている

・気候は温暖で、みんな裸足

・飲食は手づかみ

・人々は生まれつきお酒をよく飲む

・集会では、座席の順番や振る舞いに差別がない

・有力者は4・5人の妻がいる。普通の人でも2・3人。みんな嫉妬とかはしないらしい

・身分にランクがある

・悪いことをした場合、軽ければ妻子没収。重ければ一族皆殺し

・普通の人は偉い人に道を譲る

・市場があり、物々交換してる

などなど。

また、魏志倭人伝による日本の場所は、その通りに行くと
太平洋のど真ん中になってしまう。
なので、邪馬台国は実際どこにあったのかわかってません。

有力なのは奈良付近と福岡付近だそうです。
ちなみに九州説を言い出したのは江戸時代の国学者
本居宣長(もとおりのりなが)

反対に奈良説を言い出したのは、こちらも江戸時代の
新井白石(あらいはくせき)
それ以来、この二つの説は対抗しまくってます。

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